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キミが涙を流さぬように



「『ひどい長屋の4人の子供、最中どう100円で』。はい、復唱」
 舌足らずの声がそう告げると、まるで合わせたかのようにその言葉を全員が繰り返す。

 気だるい梅雨の季節。しかも昼休み明けの5時間目。
 誰もが疲れたような顔を浮かべて、授業を受けていた。
 ここまでなら、この時期特有のいつもの出来事なのだが、金曜日は殊更全員の顔に覇気が無かった。
 それもこれも今教鞭を振るっている須磨寺澪の責任である。
 いや、これでは責任転嫁だ。言い直そう。須磨寺澪の影響が大きいのだ。
 須磨寺澪という女性について詳しく述べるならば―――現在25歳にして独身、私立雲生学園の日本史担当。授業を一言で言うならば、『多弁』。板書の頻度は多め。質問も多め。小テストはないが抜き打ちのテストはある。スリーサイズは上から下まで同じであると推測。つまりは幼児体型。
 そう。この黒板の前で授業を行っている須磨寺澪という女性は、誰がどう見ても僕よりも年下、身長145cmしかないミニマムティーチャーであった。

「これは奈良時代の政権の移り変わりだ。順に藤原不比等・長屋王・藤原四兄弟・橘諸兄・藤原仲麻呂・道教・藤原百川となる」
 そんなミニマムティーチャー・須磨寺澪は目の前に広がる死屍累々な状況を知ってか知らずか、滞りなく授業を進めている。黒板の上のほうに手が届かないらしく、彼女専用の木箱を用いて書いているのが愛らしいといえば愛らしいのか。見慣れてるけど。
「不比等は大宝律令と養老律令を編纂した人っていえばわかるな。この人は藤原鎌足の息子だ。テストはもちろん、受験にも出る単語だから要注意しておけ―――ん。もうすぐチャイムが鳴るな。これで終わりとする」
「起立、礼」

 澪先生が教室を出て行くと、クラスメイトは背を伸ばしたり、同じく教室を出て行ったりと少々慌しい休み時間に入る。
 僕も用を足すために席を立つ。教室を出て、いざゆかんとするところで妙な違和感。
 どうも前に進みづらい。このまま突き進めば問題はなさそうだが、どうもこの違和感は拭えそうにない。さらに「キョウちゃん」などと僕の名前を呼ぶ声がするのだから、これは既に違和感どころではない。
 後ろを振り向くと、僕の服の袖を掴んで少し困ったような顔をしている女性の姿があった。
 澪先生とはまったく正反対の体つき。ストライプの入ったシャツからのぞける胸の谷間が多くの男子生徒に好評である。性格もどこか弱々しさが滲み出ている。動物でいうなら気弱な犬、といったところか。
 須磨寺千佳。私立雲生学園の国語担当にして、須磨寺澪の双子の妹である。
 体つきも性格も両極端で、しかも姉のほうが子供っぽい双子なんているのかと思う。一見すると千佳先生のほうが姉の素質は十分備えていると思うのだが、所詮は一見である。
「お姉ちゃん――澪先生の授業は大丈夫だった?」
 僕が振りかえることを確認した千佳先生は軽く息をつくと、そう質問してきた。
「大丈夫っていうか、いつもと同じような感じかな。力入れすぎ」
「やっぱりね。澪先生は心配性な体質だから。特に5時間目なんて、皆がやる気ないものだから逆に力入っちゃってる」
「天邪鬼な性格だね」
「あー、そっちのほうが正しいかも」
「口調では平静を保っているつもりなんだろうけれど、こう、ほら、ね?」
「だよね。『本性』知っている分、ね」
 本性。
 そう、本性を知っているからこそ出来るこの会話。学校だけで須磨寺澪に会っていると、彼女の本質を知ることは無い。あくまでプライベート。オフな時間帯の彼女に会わなければ本性を知ることはまず難しい。オンとオフの切り替えがとても上手いのだ。
 では、なぜ僕が彼女の本性を知っているのか。
 答えは実に明白。

 僕と須磨寺姉妹は実の姉弟なのだ。

「あぁぁぁぁぁ……。つーかーれーたー!」
 そして今ここにオフな状態の須磨寺澪――澪姉さんがいる。
 時計を見ると既に午後7時を回っていた。どうやら部活顧問であるバスケットボールの練習はかなり長引いたらしい。
 着替える時間も惜しかったのか、部屋に帰ってきたときには既にタンクトップにスパッツという部屋着で良く見る服装になっていた。
 重要な書類も入っているであろう鞄もぞんざいに投げ捨て、早々とソファに身を埋める。
「お、お姉ちゃん! はしたないよ!」
 既に帰宅していた千佳姉さんはそんな自堕落っぷりに頭を抱える。
「いいじゃん、いいじゃん。どうせ誰も見てないんだし」
「思いっきり見てるよ! わたしとキョウちゃんが!」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」
「どこからそんな根拠の無いこと言えるのー!」
「落ち着いて、千佳姉さん」
「うぅぅぅぅ……」
 泣きそうな顔でこちらを見つめてくる千佳姉さん。悔しいんだろうなぁ。まったく話を聞いてくれない実の姉に。僕だって、対処に困る。
 夕飯の準備をするために、千佳姉さんからバトンを受け取った僕は、まずはそのだらしなさに改めて頭が痛くなる。
 そもそもタンクトップとスパッツなんていう服装は、服装とは言えない。下着だ。一枚、二枚先には魅惑の世界が広がっているのだ。今もソファに座っている澪姉さんを見下ろす形になっているけど、うっかりするとタンクトップの中にある薄い胸の先っぽが、覗けてしまいそうになる。実の姉に欲情を抱く僕ではないけれど、そんな扇情的な服装だけにはさすがに目を背けたくなる。
「ん。どったの?」
「……いや、本当に疲れてるみたいだから大丈夫かなと」
 危うく煩悩の塊を実の姉に見せ付けるところでした、とは言えまい。
「無理しないで普通の口調で喋れば? あんな堅苦しい口調はやっぱり澪姉さんにはあわないと思う」
「仕方ないでしょ。ただでさえ、背が小さすぎてPTAからいろいろ言われているんだから。あんな子供にまともな教育が出来るのかー、ここは幼稚園なんですかー、とか。だったら態度で示すしかないじゃない。教育に全てを注ぐような人間に成り代わらなくちゃいけないじゃない。そのためには偽りでもあんな形にならなくちゃ」
「にしては、失敗しているような気がするけど」
 今日の授業でも寝ている人いたし。
「あはは。そりゃアタシだって似たような経験してきたからねー。気持ちはわかるんだよ、うん」
「その時点でダメじゃん」
 やはり心底では生徒と仲良くしたいという気持ちが強いんだろう。
 だから、これほど疲れていてもクラブ活動は付きっ切りで付き合う。終始、堅苦しいイメージが付きまとう澪姉さんだが、この女子バスケ部での顧問振りには定評がある。技術力もさることながら、チームの結束力が固い。生徒間だけではなく、生徒と顧問間との連結もかなりのものだ。何回か、練習を見に行ったことがあるが、澪姉さんの表情はかなり緩んでいたと思う。
 僕の指摘に、澪姉さんは肩を落とす。自分でもよくわかっていることなのだろう。
 別に澪姉さんを追い詰めたいわけじゃない。ここまで自分を縛っている澪姉さんが痛々しいのだ。こんなにも生徒が大好きな先生なのに、こんなにも教育について考えている先生なのに、全て上手くいかないのは自分のせいだと追い込んでいる彼女を、弟としてではなく、ひとりの人間として見たくないのだ。
「うーん。それじゃあお姉ちゃんを慰めてくれるかな、キョウ?」
「は?」
「だぁ〜いぶっ!」
 僕が驚いている隙に、ソファをロイター板代わりにして、満面の笑顔で飛び込んでくる我が姉。
 ソファごときにそんな弾力性があるわけがなかったが、実際飛び込んできたものはしょうがない。僕は避けることも出来ず、澪姉さんの体を受け止め―――床に背中が直撃した。
 硬直。
 僕は突然の出来事と衝撃に。
 澪姉さんは突然の出来事と気まずさに。
 数秒間の沈黙の後、「あー」と先に口を開いたのは澪姉さんだった。
「あぶないなぁ。ちゃんと受け止めないと」
「こっちのセリフだ!」
 謝るかと思ったら責任転嫁されてた。
「男の子なんだから、女の子を支えるくらい力強くならないとダメだよ?」
「僕のひ弱さよりも、まず澪姉さんの突発的行動を非難すべきだと思うんだが」
「ちゃんと予告したじゃない」
「あんな叫び声が予告のつもりだったのか」
「でも、ちゃんと受け止めてくれたのは評価高いよ」
「受け止めなかったら、今度は怒られるしね」
「それだけ?」
「……もちろん、澪姉さんに怪我を負わしたくないって思ってるけどさ」
 わかってるくせに、訊くな。
 ほら、やっぱりニヤニヤしてるし。とにかく僕からどいてください。さっきも言ったようにほとんど下着同然なんですから、澪姉さんの格好は。
「大きな音がしたけど大丈夫!?」
 千佳姉さんの声が聞こえる。
 顔をそちらに向けると、鍋でも見ていたのだろうか、その手におたまを持ったまま立ち尽くしている千佳姉さんの姿があった。
 僕たちの姿をどう見たのか、徐々に顔が青くなっていく。
「お、お姉ちゃん……?」
 やばい。絶対勘違いされてる。
「待っ―――」
 即座に判断した僕は止めようと声をあげたが、澪姉さんは更にその上を行き、僕の口をその小さな手で塞ぐとこれ見よがしに体を密着させてきた。
 しかも笑っていらっしゃる!
 ほくそ笑むっつーか、妖艶な笑みっつーか、とりあえず怪しい笑み。
 誰もが固まっている空間の中で、澪姉さんだけが嫌らしく、矮躯を僕の体に摺り寄せている。
 やばい。何がやばいって、そりゃ倫理観―――ではなく、危機感。これから何が起こるのだろうという危惧。果たしてそれがどれだけの影響を受けるのかという落胆。その他諸々の感情を今まさに感じようとしているところに、

「もう、キョウったら激しいんだから……」

 澪姉さんなりの艶やかな声が鼓膜を通り抜け、千佳姉さんの絶叫が鼓膜に響いた。


 千佳姉さんの絶叫はご近所まで響いたようだ。わらわらとやってきた親切な方々と野次馬根性溢れた方々を、丁重にお帰りいただいて、そこから千佳姉さんのお説教タイム。事情を聞くなり、僕の背中より後頭部を心配した千佳姉さん(曰く、背中を打って後頭部を打ってないはずがない、らしい。鋭い。あんな体勢から後ろに倒れれば背中だけではなく、後頭部に被害が及ぶのは致し方ないことだ)は、僕を軽く横に寝かせた。そこからが怒涛の説教ラッシュ。こうなったら、どちらが姉なのか大人なのかわからない。いや、今回のことでより一層、澪姉さんの姉指数が下がったに違いない。
 本来ならその一部始終をノーカットでお送りしたいが、両名のプライベートに関わる言動が加わったので残念ながら割愛させていただく。とりあえず、「男の前で言うことじゃないよね、それって」と思わず呟きたくなることであったことは確かだ。
 ところで、大丈夫なのか。夕飯。


 空気の重い夕飯も終え、僕は部屋に戻る。
 心身ともに疲弊しきっているのか、戻るなり、ベッドに倒れてしまった。ああ、澪姉さんがソファに身を埋めた気持ちがよくわかる。
 何もかも忘れて、このままとろけるような夢の世界へ。
 そう考えると、瞼がゆっくり、おり、て――――

 コン コン

 それを許さないノックの音で目が覚めてしまった。
 というか、タイミングが良すぎやしませんか。どこかから盗撮しているのではないかと勘繰ってしまう。まあ、身内を盗撮するような変態がこの家にいるとは思えないが。思えない。思いたくない。
 ともあれ、ノックをされたら返事をするのが礼だ。礼節を重んじるのが日本人。
 身体を起こし、ベッドの端にに腰を下ろす。
「はいよー」
 当たり障りの無い返事を返すと、部屋の扉が音を立ててゆっくりと開いた。
 そんな余所余所しく、甲斐甲斐しい開け方をしたので、てっきり千佳姉さんだと思ったのだが――そこにいたのは小さな体を更に縮ませていた澪姉さんだった。
「…………」
 しかも、意外なことにドアを開けても黙り込んでる。
 何か用と聞ければいいのだが、彼女が口を開けたり閉めたりと忙しなく、こちらも話しかけるタイミングを失っている。こうなれば、澪姉さんが喋ってくれるのを待つしかない。
 顔を七変化させる澪姉さんを楽しんでいるうちに、ようやく決心がついたのか、澪姉さんが改めて口を開く。
「―――ご、ごめんね?」
 出た言葉が突然の謝罪だった。
 突飛な行動に頭が混乱する。
「え、なに?」
「だから、ごめんって謝ってるの。その、突然飛び掛ったこととか、千佳ちゃんに怒られちゃったこととか」
 まさか澪姉さんの行動のなかに殊勝なものが含まれていると思わなかった。いや、学園内での振る舞いを見ていれば、それなりに大人な対応は出来るんだろうけれど、今までが今までだからなあ。驚くに決まってる。
「いや、大丈夫だよ。謝られるほど大きな出来事じゃないし。それに言ったじゃん。澪姉さんに怪我がないことが僕にとって嬉しいんだよ」
 つくづくシスコンだな、僕も。
「あはは、シスコンだなぁ。キョウは」
 実の姉にも言われてしまった。知人に言われるより強烈だな。それにしても、姉にシスコンってことを知られることって、意外に致命的な気がする。
「まあ、アタシもブラコンだからいっか」
 致命的な部分を自ら暴露しちゃったよ! そもそも、自分でブラコンって言っちゃう人って初めて見た気がする。でも、澪姉さん。「いっか」で済まされるような軽い話題じゃないと思うよ、これ。
「それで澪姉さん。用事はそれだけ?」
「え、あー、うん。ううん?」
「どっちだよ」
「言っていいのかなあ」
「渋るくらいの用事なら明日でもいいよ」
「あ、いや。今がいい」
「そう?」
 そこでようやく澪姉さんが僕の部屋の敷居を跨ぐ。扉を開けたときからまったく動いてなかったので、短い用事だとばかり思っていたのだが、次からがどうやら本題のようだった。
 入ってきたはいいが、それ以降、澪姉さんに目立った行動は見られない。また止まってしまった。
 目立ってはいないのだが、先程からタンクトップの裾を両手で握り締めている。まさに一大決心、というべきなのだろうが、そのせいで徐々に鎖骨から下が見えてきている。気にはしないけど、気にして欲しいと思う。姉とはいえ、しかも幼児体型とはいえ、女性は女性なのだ。それぐらいの恥じらいは持っていてもよかろうに。
「…………ほしいな」
 しまった。聞き逃した。
 うっかりしすぎ、僕。
「えっと、ごめん。もう一回言ってくれると嬉しい」
 わざとらしくないように、表情や仕草に気をつける。
 澪姉さんは困った顔をしていたけれど、二度目とあってか、それほど緊張せずに、しかし躊躇するように言葉を発した。
「その、いろいろあって曖昧になっちゃったけど……お姉ちゃんを慰めてほしいな」
 出来ればもう一度聞き返したい気持ちだったが、どうやらそうもいかないらしい。仏の顔も三度まで。澪姉さんもさすがにまた繰り返すのは御免こうむりたいはずだ。よし、どういうことか推理する。
 文面だけとると激しく妖艶なお願いのように聴こえなくもない。とはいえ、僕と澪姉さんの間にはセクシャルな関係はおろか、プラトニックな関係など存在しない。フラグなんて立ててないし。そもそもが唐突過ぎる。『慰めてほしい』。これがネックだ。これを僕は遠まわしな解釈をしているから悪いんだ。もっと安易な、直接的な意味に捉えれば問題は解決する。
「それは、その、夕飯前の出来事のことかな?」
 飛び掛られた、あの。
「…………」
 よし、正解。
「あれって本気だったんだ」
「そりゃそうだよ。アタシは冗談は言うけど、嘘はつかないよ」
「その見極め方がわからないんだけど……」
 日本語って難しいなあ。
「それで、その、慰めて、ほしいと?」
 なぜか細切れに確認してしまう僕。どうやら思った以上に動揺しているらしい。
「といっても、僕は何をすればいいのかさっぱりなんだけど」
「大丈夫。キョウは何もしなくていいよ」
「ん?」
 いや、それは慰めるって行為にならないんじゃないだろうか。
 そんな疑問はお構いなしに、澪姉さんは足早にこちらに向かってくる。
 またダイブしてくるかと身構えたが、そんなことはなく、目的地までたどり着くとそこに座り、もたれかかった。
 座ったのは、ベッド。しかも僕の両足の間だ。
 もたれかかったのは、僕の胸。そこに頭をぐりぐり押し付けている。
 以上。状況説明でした。
「……じゃなくて。何してるんだ、澪姉さん」
「慰められる準備?」
「いや、疑問形で返されても僕が知っているわけがないから。しかもこれで準備なのか」
「うん、準備。あ。さっそくだけど、アタシ、嘘ついちゃった」
 嘘はつかないんじゃなかったのかよ! やっぱり日本語は難しいな!
 もう澪姉さんの言葉は話半分に聞き流しておいたほうが得策かもしれない。
 頭を抱えている隙にも、澪姉さんはまるで子猫のように僕の胸に寄りかかって、身体を擦り付けている。
 たっぷり勿体つけておいて、澪姉さんは上目遣いにこちらを見つめてくる。
「お姉ちゃんの頭撫でて」
 ああ、そっか。これが猫撫で声ってわけね。日本語って面白い。
 それにしても―――
「また子供っぽいお願いだなあ」
「いいでしょ。抱きしめてくれるならそれでもいいよ?」
「謹んで、頭を撫でさせていただきます」
「ざんねーん」
 あまり悔しそうに感じさせない笑みを浮かべて、とうとう全身までも僕に預けてきた。
 ここまで来られたら、もう僕のやることはひとつしかない。
 ゆっくりと、髪を梳かすように頭を撫でる。肩口までしかない髪をなぞるように、何度も、何度も撫でる。
 その間、澪姉さんはなされるがままだったが、その表情は緩みまくっていた。
 緩み、蕩けまくっていた。
「お姉ちゃんね」
 と、そこで澪姉さんは途端に顔を歪ませる。
 どこか哀しそうに。
 どこか懐かしそうに。
「どうしても人に甘えられない性格だから、どうしてもキョウや千佳ちゃんに迷惑かけていると思う」
「…………」
「キョウがどれだけ心配してるのかは、お姉ちゃんだからわかってる。でも、だからこそ頼っちゃいけないって気がするの」
「頼っちゃいけない?」
「姉、だからね」
「そういうもんかな」
「そういうもんなのです」
 姉は妹や弟の手本であらなくてはならない、ってか。
 そこまで気張らなくても十分、姉として、僕の人生においての先生であることには変わりはないのに。
「でも、やっぱり弱くなっちゃうからね。いろいろ問題が山積みになっちゃうと」
「どうせその問題ってのも語るつもりないんでしょ?」
「……うーん、そうだね。ゴメン」
「ならいいよ」
 語りたくなかったらそれでいい。だから、今だけは。
「今日は甘えていいから。ゆっくり、休んでいいから」
「あはは。お母さんみたいだね、キョウ」
「そうでもしないと甘えられないなら、それでもいいよ」
「……ホント、優しすぎるくらいに優しいよね。キョウは」
「シスコンですから」
 もう堂々と言っちゃう。
 恥ずかしくない。むしろ誇らしいほどだ。これだけ僕は姉が好きなんだと。これだけ僕は家族がすきなんだと。
 それを証明できるから。
 僕があまりにもあっさりと切り返したせいか、澪姉さんは最初ぽかんとした顔をしていたけれど、徐々に頬が紅潮しはじめていた。見つめてくる瞳に圧倒され、僕も気恥ずかしさから思わず目を逸らす。 沈黙。
 澪姉さんに飛び掛られたのとは、まったく意味合いが違う沈黙。どうやって声をかけたらいいのか。いっそのこと、澪姉さんが笑ってくれればよかったのに、澪姉さんはそうしなかった。それがより一層、自分を惨めにさせる。つらい。つらいよ、この状況……ッ!
「――あははっ」
 そこで。
 そこで、ようやく澪姉さんは笑った。
 だから僕も笑った。
 思いっきり。何が面白いのか、お互いよくわからないまま笑った。
 何もかも忘れるくらい、とりあえず笑った。
「うん、元気でた」
「そう?」
「キョウが慰めてくれたからね」
 これが慰め、っていうのかわからないけれど、お役に立てたなら本望だ。
 残った仕事を片付けるらしく、少々名残惜しそうに体を起こす。一気に彼女の温度が僕の体から抜けてしまう。寂しいのは僕も同じのようだ。
「それじゃ、おやすみ。キョウ」
「ああ、うん。おやすみ。姉さん」
 うんっ、と元気よく頷くと駆け抜けるように部屋を出て行った―――ところで、顔だけをぴょこりと出してこちらを見ていた。
 まだ何か用があったのかと首を傾げていると、ふにゃりと珍しい笑みを浮かべ

「ありがとうっ」

 扉が閉まった。
 同時に体の動きも思考回路も閉じこもってしまった。
 ただ、体感温度だけが異常に上昇してる。
「……やられた」
 反則だ。
 澪姉さんから感謝された。
 しかも、満面の笑み。柔和な笑み。普通なら考えられない澪姉さんの気の緩んだ行動。
 今まで意識してこなかったことが、一気に来る。考えないようにしていたことが、一気に押し寄せてくる。
「『ありがとう』なんて、姉さん、今日の今日まで言わなかったじゃないか」
 その一言が嬉しくて。
 その一言が優しくて。
 その一言が激しくて。
 その一言が、ひどく、僕の心を打つ。

 どうやら今日は、眠れそうにない。




 ―――でも、人間、寝ようと思えば簡単に寝れるものである。
 今思えば、そのまま寝ていたほうがよかったのか、それとも起きたままのほうがよかったのか。
 目を覚ましたとき、そのぼやけた視界にいたのは。
「あ、おはよー」
 なんか、僕の、寝巻きを脱がしにかかっている澪姉さんの姿だった。
 しかも下。
「なにやってんだ、アンタは!?」
「脱がしてる」
「行為じゃなくて、この状況を説明してください!」
「えっと、ほら、窮屈そうだったから?」
「人の生理現象をいちいち確認しなくていいですから!」
「びっくりした」
「感想もいりません!」
「……な、なんならお姉ちゃんとイケナイコトしちゃう?」
「恥じらいながら倫理観を損なうこと言わないで! って、上に乗るな! スパッツ! なんか無性にイケナイ気がする!」
「えっちー」
「そんな状況にしているのは、どこのどなたですかっ!」
 シリアスなあの夜の出来事はなんだったのか。次の日になると、澪姉さんはいつも澪姉さんだった。残念にも思ったが、彼女がしおらしくしているのも違和感がある。それを考えるとこのままが一番いいのかもしれない。こういう状況は勘弁だが。
 ともあれ。
「お姉ちゃん!」
「あ、千佳ちゃん」
「やっぱり、ここにいた! 部屋に居ないと思ったら。今すぐキョウちゃんから離れなさい!」
「ヤだ! どうせ千佳ちゃんもキョウとくっつきたいくせに!」
「ち、違うもん! 千佳はキョウちゃんの心配をしてるんだもん!」
「騙されないよーだ。いつもキョウのパンツ眺めながら、ポーッとしている癖して!」
「そ、そういうお姉ちゃんだってキョウちゃんの写真を定期入れに入れてるじゃない!」
「なにをぉ!」
「なによぅ!」
「……朝から僕の部屋で騒がないでくれないか。姉さんたち」

 本日も、須磨寺家は平和そうである。