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「先輩。あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう。年賀状届いたわよ。あまりにコミカルであなたのものだとは最初思わなかったけれど」
「先輩は、まさしく先輩らしいですね。達筆でした」
「パソコンは苦手なの」
 寒いわね、と体を擦りながら先輩は部屋に入ってくる。この部屋には我がサークル伝統の灯油ストーブがあるので、冬でも暖かい。ただ1番手だけはキツい。部屋も温もっていないし、火を灯す作業もさることながら灯油が足りなくなったら取りに行かなくてはならないのだ。灯油臭くなるのは、女のわたしには少しつらいものがある。
 幸いなことに今日は1番手ではなかった。もっとも、1番手だったはずの人はここにはいない。わたしが来ると「ごめん、今日バイトがあるから参加できない」と言って帰ってしまったのだ。それぐらいならメールで連絡くれればいいものの。
 ストーブ前で十分温もった先輩は、戸棚から渋茶の葉を取り出すと急須に入れ始めた。
「先輩は本当に趣味が渋いですよね」
「そうかしら」
 首を傾げると漆黒に塗りつぶされた長い髪がふさりと胸元に落ちる。白磁器のように滑らかな肌は、どこか日本人形を彷彿させる。紅に濡れた唇は、寒さを気にしないように潤いと柔らかさを保っている。
 門外不出の少女。
 永遠不変の少女。
 先輩を見れば、誰もがそう感じる。
 でも時間は永遠ではない。門外不出なんて出来るはずがない。
「先輩ももうすぐ卒業なんですね」
 この3月で先輩も卒業だ。既に単位は取得しているし、卒業論文も申し分ないほどに完成し、提出している。いわば大学生活でやるべきことはほとんど終わってしまったのだ。
 それでも先輩はこのサークルにはよく顔を出してくれる。
 就職活動中には近くで見つけたケーキ屋でおみやげを買ってきて持ってきたり、前期のテスト前になると単位を取得した科目の傾向と対策を教えてくれたりもした。誰よりも率先してこのサークルを盛り上げ、喜びと悲しみを分かち合った。先輩がいなければこのサークルは成り立たなかったのではないかと思うくらいに。
 だから、寂しい。
 あと3ヶ月もいられないんだって。
 先輩とは、もう毎日いられなくなるんだって、思うと。
「ふーちゃんは今年で何歳になるの?」
 悲しみに浸っていると、目の前にお茶の入った磁器を手渡される。
 慌てて受け取ると、かじかんだ指先が徐々に熱を帯びてくる。同時に荒んでいた心も和らいでいき、頭にも余裕が出てきて、果たして今年で何歳になるのかという質問について考え始めた。
 なにせ、まだ今年は明けてばかり。今の歳を言えばいいのか、それとも次の歳を言えばいいのか整理がついていない。ようやく結論が出た頃には、先輩は口を押さえてコロコロと笑っていた。よほど、悩んでいるわたしの顔が面白かったのだろう。むー。
「今は19歳ですから―――今年で20歳です」
「あら、おめでとう」
「……おめでたいんでしょうか」
「おめでたいわよ。区切りですもの。成人式に出られるわ」
「んー。確かにそれは嬉しいんですけども。うーん」
「悩むことがあるの?」
「実感がないっていうか。このまま20歳になっていいのかなあって」
「10進法じゃなくて16進法のほうがよかった?」
「いえ、そういう意味ではなく」
 難しいのかな。
 これはあくまで気持ちなのだけれども。
「先輩は19歳と20歳で何が違うと思いますか?」
「なかなか面白い質問ね。うーん。気持ち、かしらね。ここからは『おとな』。『こども』の時間はもう終わりです」
「そこなんです。わたしは果たして『おとな』になっていいのかな、って思うんです。心の準備もしていないし、決意も決まっていないんです。この大学を選んだ理由も『面白そうだから』なんです。そんな放浪した生活を送っているわたしが『おとな』なんていう部類にされてしまっていいのかどうか」
 成人式は、文字通り、成人を祝う式。『おとな』になった人を祝う式。
 でもそれはあくまで年齢でのこと。精神が追いついていない。それが今のわたしなのだろう。
 考えすぎなのかもしれない。
 そのまま時の流れに身を任せていいのだろう。でも、どこか反発する。このままではいけないと誰かが言うのだ。
 こんなことに悩んでいる『こども』のわたしに、『おとな』の先輩は何を言ってくれるのだろう。
「ふーちゃんは偉いわね」
 先輩は笑みをこぼす。
「でも、難しく考えすぎよ。例えば電車で県を越えなければならない事情が出来た。最初は県を越える行為がとても素晴らしいもののように思えるけれど、意外とそれって呆気ないの。電車に揺られていると突然標識が既に県境を越えているのを教えてくれるの。明確な線なんて線路上には見えないし、誰かが知らせてくれるわけでもない。ふーちゃんが悩んでいるのは、そういうものよ」
 つまり、それは境目なんて、境界なんてものは全て気にする必要はないということだろうか。
 でも、それは境界を越えた人の感想。まだ境界を越えたことのない人が言える言葉ではない。
「そんなことないわよ、ふーちゃん。貴方は既にそうした境界を越えているのよ?」
「そうなんですか?」
「年齢というこだわりがあるなら、一桁と二桁の違いがあるわね。9歳と10歳。そこに何か明確な意識はあったかしら?」
「……ないです。いつの間にか過ぎ去ってましたから」
「そういうことよ。もしくは年齢というこだわりがないなら、小学校と中学校というのはどうかしら? そこに明確な意識はあったかしら」
「…………」
 ないとも言い切れない。でも、そうだ。既にわたしは幾度の境目を越えている。意識していようがしてなかろうが、何度もそうした境界を越えてきたのだ。
 呆気なく、その境界を越えてきたのだ。
「大丈夫よ、ふーちゃん。その境界を越えたからといって死ぬなんてことはないわ」
「し、死ぬ!?」
 なんて縁起の悪いことを正月明けに言うのか、この人は。
 冗談のつもりだったのだろう。先輩は口元に手を添えて、笑っていた。
「むしろ、私のほうの境界が一番怖いのよ?」
「先輩の?」
 ええ、と先輩は頷く。
「『学生』と『社会人』の境目はかなり大きいわよ」
「あ……」
 そうだ。
 卒業ばかり頭に入っていたが、先輩は卒業と同時に社会人になるのだ。あの秩序も空間も歪んだ社会の中に先輩は放り出されるのだ。『学生』だった時分には誰かが後ろ盾になって支えてくれていた。でも、『社会人』はそうはいかない。自分ひとりの力で切り抜け、自分ひとりの力で打破していかないといけない。まるで仲間のいないRPGだ。ネバーエンディングストーリーでもいい。
 そんな中に先輩が入っていくというのが信じられない。
 門外不出の少女。
 永遠不変の少女。
 崩される。
 崩れていく。
 崩されていく。
 ことん、と音がした。
 まるで人形が転げ落ちたような、軽くて、鈍い音が。
 顔を向けると、先輩が机に茶碗を置いたところだった。

「大丈夫よ」

 先輩は、笑顔をそのままに

「その境界を越えたからといって死ぬなんてことはないわ」

 同じ言葉を繰り返した。