Welcome,this new world.



 6.

 やっぱりいた。
 準備運動で体が温まったところで、ふと上を見上げるといつも通り須磨寺夜が通路に立ち尽くしていた。もうこれで三日連続だ。そろそろ人目についてもいいころだが、運がいいのかそれとも影が薄いのか、どうやらまだ俺しか知らないようだった。
 俺が視線をそちらに向けると、気づいた須磨寺夜はフッと軽く笑みを浮かべた。どうやらあれ以降、俺は須磨寺夜に関心をもたれているらしい。だが、あの様子だと素直に喜ぶべきではないだろう。まああの夜が大声で笑っている姿も想像できないのだが。
 さて、どうしたものかと考えていると磯貝が近づいてきた。
「なんだ、ぼーっとして。準備運動くらいでバテるお前じゃないだろ」
「ん。いや、気にするな。そうだ。須磨寺茜ファンクラブ会員に訊きたい」
「いつからそんなクラブが発足されたんだ。そして俺は須磨寺のファンじゃない!」
「いいからいいから。お前から見て、須磨寺茜の素質ってどういうもんだと思う?」
「それ、前も話さなかったか?」
「気にすんな」
 何か言いかけたが、面倒くさくなったのか溜息を吐くと磯貝は言葉を選ぶように思案し始める。
「まず、あの能力はもし須磨寺が男であっても通用するレベルだと思う。パスは相手の隙や味方の移動を考えて的確なパスを出すし、シュートもここぞいうときに切り込んでいける。何より特筆すべきなのがそれらを総括できる判断力だな。これはお前も理解しているだろうが、判断力っていうのは得てして出来るものじゃない。経験で得たものは結局経験論でしか語れないんだ。多くの選択肢の中から瞬時にひとつに絞ることが出来るその判断力は、先天的としか言えないだろうな。そう考えると、あのシュートやパスも生まれながらにしての天賦だったんだろう。まさに、バスケをするために生まれた人間、ってところか」
「……すんげぇ過大評価だな」
「多少美化しているところはあるだろうけどね。とはいえ、難しく言って誤魔化しているっていうこともあるかもな。俺は言葉を並べるのは好きだけど意味を見出すのは嫌いだし」
「うっわ、それひでえ。今までの数分間返せ!」
「ぼーっとしているお前が悪い。にしても、なんだ。お前のほうこそ須磨寺に興味があるのか?」
「ん……いや、須磨寺は須磨寺だけど、違うっていうか」
 須磨寺茜ではなく須磨寺夜のほうなんだが。
 上を見ると彼女の姿はもうない。やばい。今日は妙に早く退散しやがる。
「すまん、磯貝。ちと教室に忘れ物してきたっぽい。来ないとは思うけど顧問が来たら連絡頼む」
「あ、ああ……それは構わないが」
「恩に着る!」
 バッシュを脱ぎ捨て、靴を履き替えるのもそこそこにして俺は外に出る。確か美術部は今日、活動日。小春と日和が調べてきた情報だから信用できるはずだ。とはいえ、あまり急ぐ必要はないか。出来れば人気のないところで話がしたい。そうなると須磨寺夜が美術部の部室である美術室に辿り着いたところで、会話をするのが得策か。実質活動部員が1人である須磨寺夜の気まぐれで部活を休むことになったら終わりだが。
 それまでの時間潰しを考えていると、無意識にポケットに突っ込んでいた携帯電話が震えた。振動が長い。どうやら電話のようだ。まあこんな時間に電話をかける無礼者は1人しか思いつかないので、仕方なく電話を取る。
「もしも―――」
『あ、カガトか? 俺や、俺』
「最近のオレオレ詐欺は関西弁がブームなんだな。知らなかった。さようなら」
『待てっ! 切んなや!』
 煩いなあ。
「で、どうした」
『どないもこないも、こんな時間に電話した理由なんてすぐわかるやろ?』
「ルリとでも喧嘩したか。前々から言ってるだろ、避妊はちゃんとしろって」
『誰がそんなこと言ってんねん!』
「冗談だ」
『……カガトが言うと、冗談に聞こえへんときがあるから困るわ。まあええ。ルリが今日バイトないらしいから、時間になったらいつものとこにおるわ。来須にはあとでメールしとく。ゴリさんは、まあ、どないかなるやろ』
「俺の用事聞かないんだな」
『何言うてんねん。言わんでも勝手に来よる癖して。そっちはまだ部活中やろ? こっちも多少時間つぶしてから行くからな。安心せえ』
「避妊しとけよ?」
『誰がご休憩する言うた―――痛ッ!』
『……うるさい。恥ずかしい』
『やからって、いきなり叩くなや!』
『…………』
『っておい、どこ行くねん。すまん、カガト。そういうこっちゃから頼むで!』
 切られた。
 ふむ。どうやら近くにルリがいたらしい。いやまったく仲のいいことだ。電話越しながら夫婦漫才を楽しめることが出来るとは。どうせ後で散々見せられるんだろうけれど。
 ともあれ、お陰で時間がつぶれた。こんな電話でも須磨寺夜が美術室に向かうのは十分の時間だろう。あくまで、彼女が部室に行っていれば、の話だが。
 テニス部や野球部の練習を横目に、校舎に入る。校舎内は吹奏楽部の音が玄関まで漏れている。オーケストラに興味がないので、曲までは把握できないが、なかなか不安にさせる曲調だ。低音が重く響いていて、そこから微かにフルートの高い音が加わる。ちょっと音が震えているところも恐怖を助長させる。意図的か。面白いな、まるでゲームのイベント音楽じゃないか。これから須磨寺夜と会うのが、よほど暗いイベントになるらしい。
 夜、ね。
 親はどういう意味を込めて彼女に名前をつけたのだろう。茜はまだ認められたとしても、夜なんて名前は普通は付けない。茜と対比させるつもりだったのだろうが、逆効果だ。まったくそのまんまになってしまっている。もちろん、名前に罪はないのだが。
 一歩一歩踏みしめながら、リノリウムの廊下を歩く。確か美術室は東館の2階。下駄箱は西館の1階だから少々時間はかかる。出来れば目立たないように美術室まで行きたい。俺が美術室に向かうところなんて見られたら、後々、妙な噂が立ちかねん。それは俺も須磨寺夜も遠慮したいところだ。そもそも俺は忘れ物を取りに行くことになっている。学生棟は西館のみ。東館なんかにいたら、更に怪しい。
 そんな心配をよそに、というより考えごとをしている間にどうやら美術室の前まで辿り着いた。
 曇りガラスから見るに電気はついている。どうやら、誰かがいるのは確からしい。それが須磨寺夜なのか、それとも別の人物なのか。ひとりか、大人数か。俺は軽くノックし、扉をスライドさせる。
 美術室は独特の空気をまとっていた。絵の具のせいだろう、どこか鼻につく、どろどろとした空気。

 まるでその空気と一体化するかのように、須磨寺夜はキャンバスを前にして座っていた。

 突然俺が来たことを微塵も気にしていないようで、文庫本をキャンバスに変えたこと以外は初めて言葉を交わしたあの頃とまったく同じ状態だった。なら、やはり挨拶は必要だ。挨拶はコミュニケーション上は大事とされている。それをなくして、関係性は改善もされないし進歩もしない。
「こんにちは、っていうべきか。これは」
「そうね。でも夕方だからこんばんはのほうが正しいように思えるわ」
 何はともあれ、工程はひとつ済んだ。
「何を描こうとしてるんだ。俺は須磨寺の絵を見たことないから、どんなものを描くのかわからんのだが」
「……貴方は無難な質問から始めようとするのね」
「ん?」
「いえ。そうね。文化祭も近いわけだし、描かなければいけないのだろうけれど。まだ深くは考えきれていないわ」
 そういえば、もうすぐ文化祭か。まったく部活内では話題があがらないが、どうせ毎年恒例の鉄板焼き屋になりそうだ。クラスのほうでは話題のメイド喫茶をしようなどと話が浮き上がっているが、それを女子が受け入れるか。目の前の夜を見る限り、提案は受け入れるが衣装を着るのは結構、という人間が多そうだ。
「何を描くか、ってのは普段通りにやればいいんじゃないか? 別に何かの賞に出すわけでもないんだから素の自分を曝け出す方が効率的だろ」
「……素の自分、ね」
 雰囲気が一変する。ああ、やっぱり切り替えポイントはここか。
 『自分を否定されること』。
 『双子の姉と比べられること』。
 小春と日和から聞いた情報は、どうやら正しいようだ。
 曰く、

「茜先輩と夜先輩は中学時代にバスケ部に入部してたんだって」
「どっちも腕前は凄かったらしいよ。でも、タイプが違ってて」
「茜先輩は才能型」
「夜先輩は努力型」
「努力は実を結ぶ、だったんだけど」
「努力は才能に敵わなかった」
「夜先輩が努力すればするほどに」
「茜先輩はどんどんその力を伸ばしていった」
「いつしか夜先輩は他の部員から変な目で見られるようになったの」
「夜先輩は茜先輩の真似ばっかりしている」
「気持ち悪い」
「気味が悪い」
「夜先輩はその言葉に耐え切れなくなって、途中で退部。そこから今のようにあまり印象に残らない性格になっちゃったんだって」
「でも不思議。どうして茜先輩は止めなかったんだろう。実の妹がそこまで言われているの、だいたいわかっていたと思うのに」
「小春だったら耐えられない」
「日和だったら耐えられない」
「もしかしたら一番気味悪がってたのは」
「茜先輩なのかも」

 ま、実際あんな位置で女バスの練習を見ている時点で気味が悪いけどな。
 本当に双子にもいろいろあるものだ。うちみたいに付かず離れずの関係もあれば、須磨寺姉妹のように嫉妬心を抱く関係もある。同じ一卵性双生児なのに、こうも違うとは。
「ねえ。香登くん」
 声がかかる。その硝子のような声で。脆く崩れそうな声で。
「どうしてわたしがあんなところに毎日通っているかわかる?」
「いや、わからないな」
「そうね。そのために香登くんは来たんだものね」
 まるで何もかもお見通しという顔をして、夜は嘆息を吐く。
 個人的には手っ取り早いんだが、どうも納得いかない。苦手だ。こういうタイプ。
「姉の姿を見てね。自分に重ねているの。ああ、わたしにはああいう生き方もあったんだろうな、って」
「―――姉に憧れているのか?」
 心残りか、なんて訊けるわけがなかった。俺が夜の過去を知っていることを知られるわけにはいかないし、出来うる限り刺激しないほうがいいと思ったからだ。
 俺の言葉に当然のことながら、夜は首を横に振る。
「一度、香登くんには話したわね。『須磨寺茜が2人いたらどうする』って」

 そこからは俺が妹たちから伝聞された内容が話された。しかし彼女本人の体験だからか、現実味があり、彼女がどれだけ苦しむ破目になったかがよくわかる内容だった。新たな発見としては、夜が退部するように説得したのは茜だったのだと言う。

「姉さんは、わたしが皆から気持ち悪がられていることを知るとこう言ったわ。『このままだと貴方もバスケ部も悪化してしまう。夜。我慢して。高校に入ったら、また一緒に頑張りましょう』ってね」
「いい姉だな」
「そうね。わたしも『一緒に頑張りましょう』なんて言われたときは涙が出たわ。でも、違ってたのよ。結局わたしと姉さんは」
「どういうことだ?」
「姉さんは日々レベルがあがっていく。それに比べて、テクニックを磨く機会を失ったわたしはレベルがあがったとしても微々たるものよ。わたしが中学のバスケ部を止めたのは2年の春。高校に入るまで約1年間のブランクがあった」
「ああ、わかった。その1年間が大きかった、ってわけだろ」
「……気づいたら追いつけなかった。頑張って姉さんと同じ高校には入れたけど、どうしても女バスには入れなかったわ。姉さんにも誘われたけれど、もうわかってる、結局は中学校のときの繰り返しよ。そう、それこそ香登くんが言っていたように派閥争いなんていうものが勃発したかもしれないわね」
 うーん。派閥争いは冗談だったんだが、信じてるならまあいっか。
「じゃあ、須磨寺はもうバスケはやってないのか? 美術一本?」
「どうしてわたしが美術部に入っているかわかる、香登くん」
「質問を質問で返すなよ」
「そうね。でも理由は簡単よ。―――いつでも抜け出して練習できそうじゃない。これだと」
 思わず絶句してしまう。そんな理由で美術部を選んだっていうのか。それは仮にも美術部に失礼じゃなかろうか。ほとんど人数いない部活だけども。
「もちろん顧問の先生には隠しているわよ。ちゃんと部活はしてないと」
「……いや、それなら別に部活に入らなくてもいいんじゃないか? 帰宅部だったら自主練習なんていっぱいできるだろ」
「わかってないわね、香登くん」

「地道な努力が実を結ぶ、ってことをあの姉に見返すためよ。しかも突然強くなってきてね」

 ――――――――。
 ――――――。
 ――――。
「……くくっ」
「ど、どうしたの。香登くん。変なこと言ったかしら」
 なんだコイツ。
 なんだよ、コイツ!
 やる気十分じゃん!
「なんだよ須磨寺。バスケに未練ありまくりだったんだな」
「な、何を言っているの? 誰がバスケに未練がないって言ったの」
「すまんすまん。俺の早とちりだ。はぁ……そうかそうか。なるほどな」
「わたしには香登くんが一体何を考えているのかがわからないわ」
「気にするな。しかも、隠れて練習をねえ。それなら」
 それなら、素質十分だな。
「だ、大丈夫なの。香登くん」
「おう、俺はいたって正常だ。ただ須磨寺。ひとつだけ聞かせてくれ」
「……よくわからないけど。どうぞ」
「バスケは今でも好きか?」
 そのシンプルな質問に一時須磨寺夜は呆気に取られていたが、徐々にその表情は変化していく。無から有に。黒から白に。夜を突き破って、暁となる。
「――もちろん、愛してるわよ」
 今まで見たことがないくらい、唇を吊り上げる。
 わかる。こいつは本当に好きなんだと。誰にも縛られることなく、誰からも指示されたわけでもなく、ただ彼女自身の意志によってバスケを選択したのだと。
 その瞳には意志が宿っている。
 誰にも負けたくない。特に姉。才能が努力に負けるなどということがあるはずがない。泥臭い努力が結果をもたらすことがある。信じてる。それを信じてる。そうだ、この瞳だ。彼女が女バスを見ていたときに写っていたその情景。「わたしにはああいう生き方があった」? 違う。「わたしはああなるべきだった」んだ。
 揺るがない想い。
 崩れない決意。
 それがあるならば。
 それがあるなら。

「なあ、須磨寺。今から時間作れるか?」


 7.

 俺が須磨寺夜を連れて、いつもの鉄橋下に行くとすでにそこには先客がいた。
 だがそれより夜はそこにある異質なものに目が惹きつけられたようだった。
「バスケットコート?」
 そう、目の前に広がるのはバスケットコート。1面だけだが地面もちゃんと整備しているため、こけても怪我を負うことなく練習することが可能だ。屋外のため、バッシュで練習するのは抵抗があるかもしれないが、ここにいる連中はあまり気にしていないようだ。
「ストリートバスケットボール、ってのは聞いたことあるだろ」
「ええ。わたしにはスラム街のイメージがあるけど」
「……まあ、黒人がプレイしているイメージが浮かぶのは仕方ないか」
 別に人種差別をするつもりはないんだけど。
「それで、ここに連れてきた理由は? 練習場所を教えてくれただけなら有難いのだけど」
「ああ、それは―――」
「香登せんぱぁい!」
 説明しようと口を開いたところで、そのコートから声がかかった。振り返ると妙に背が小さい少年がこちらに手を振っていた。
 夜が目を細めてこちらを見つめてくる。だんだん不信感が出てきているようだ。別に変なことをするつもりはないんだけどな。ともあれ向こうも呼んでいることだから、紹介ついでにコートも見てもらうことにしよう。
 コートを仕切っている金網から中に入ると、勢いよく頬を紅潮させながら、さっきの少年が近づいてくる。来須要。150cm台という身長だが、これでも現在15歳である。中性的な顔つきと女子も羨むその細いスタイルから、雑誌の専属モデルの話が出ているらしい。当の本人は人見知りなところがあるので嫌がってはいるが、既に何冊かはモデルとして出演を果たしている。俺を慕っている節があるが、特に俺が何か彼にしたということはない。
「なんだ、来須だけか?」
 俺が尋ねると来須は首を振ってから、周囲を見渡した。
「二条先輩は稲葉先輩を迎えに。ルリさんは確かそこで着替えて―――あ、来ました」
 指した方向を見ると、鉄橋の柱の影から胸に『気合』とプリントされたシャツとぴっちりした黒いスパッツを履いて、和泉ルリが髪をアップにまとめながらこちらに向かってきた。
 ルリは俺と夜とは違う、琴川高校に通う生徒だ。通年何を考えているのかわからない表情をしているが、彼氏の二条大和に聞く限りはあれでも表情豊かなのだという。わかるか。日本人とイギリス人のハーフらしく、その髪と瞳は日本人とは異なり、イギリス人寄りだ。だが、その容姿とは異なり、生まれも育ちも日本のため英語はまったく喋れない。
 にしても、なんだ。あのプリントシャツ。柄云々より、どこで売っているのかが気になる。
 須磨寺夜も突然現れた、日本の知識を誤って来日してしまった外人のような少女を見て驚く。当の本人はまるで気にしていないようで、むしろ着慣らしているようにこちらへ向かってくる。ふと顔をあげるとその表情はどこか険しさが増している。その視線の先は―――須磨寺夜。
「よう、ルリ。毎回言っているがあそこで着替えるのは無防備すぎるぞ。こちら側からは見えないが、反対側からは多分バレバレだ」
「……うるさい、人の勝手。ところでカガト。こいつ、誰?」
「あ、そうです。先輩。この方はどなたですか?」
 そうだな。本当は大和が来てから紹介したほうが二度手間にならずに済むんだろうが、このまま両者誰かわからないまま放っておくのは気持ちが悪い。俺が夜に目を合わせると、どうとでもしてくださいという諦めからか、溜息を吐いていた。自己紹介すらまともに出来ないほどに人間不信が出来上がってしまっているようだ。その割には俺とは普通に喋れているようだが、一体俺はどこまでこいつとの関係性が上がっているんだろうか。
「えっと、須磨寺夜。俺のクラスメイトで、バスケをやりたそうだったから連れてきた」
 大筋では間違っていないはず。何か言いたげな目でこちらを見つめてくるが、間違っていないはずだ。
「すまでら……確か、カガトの学校には須磨寺茜という女がいたはず」
「お。よく知ってるな。ルリは部活に入ってないはずだろ?」
「ヤマトが言ってた」
 何を喋ったんだ、あいつ。余計なことじゃなければいいけど。
「僕も名前はうかがってます。何でも『保科のクリス・ポール』の異名を持つとか」
「クリス・ポールかよ」
 えらく最近の選手だな。異名ならもう少し昔の名前が出てくると思ったんだが。
 クリス・ポールはニューオリンズ・ホーネッツのプレイヤー。身長は183cmとあの世界の中では小柄だが、それを跳ね返すかのように彼が持つ多くの技能は新人王を受賞するほどだ。彼がゲームを引っ張っている印象があるからか、若き司令塔なんて文字も雑誌では並んでいる。そう考えると、確かに須磨寺茜も素質は似ているかもしれない。でも、女性に対して男性プレイヤーの異名がつくのはいかがなもんかと思うが。
「じゃあ、この方は」
「ああ、須磨寺茜の双子の妹、須磨寺夜だ。中学の途中まではバスケ部所属。今は自主的に練習を重ねているらしい」
「へー。双子だったんですねぇ。あ、すいません。僕は来須要です。香登さんにはチームとしてもコーチとしてもお世話になってます」
「チーム?」
 やっぱりそこに食いつくか。
 これも後でゆっくり喋ろうと思っていたんだが、不思議に思ってしまったのなら仕方ない。
「俺とルリ、来須とあと2人を合わせてチームを組んでるんだ。ストリートバスケットのな。ま、大会なんて出るほどの腕前じゃないから、自己鍛錬の場みたいになってるけど」
「香登くんは男バスにも入ってるじゃない。どうしてまたこういうのに入ってるの? 疲れない?」
「疲労度に関しては調整してるさ。で、このチームにいるのはさっき言ったとおり自己鍛錬が主な理由だな。このコート、今は俺たちが使っているけど、たまに他の人間も使ってくる。部活と違って、日々対戦相手が違ったりするから学べるところは多い。お互い情報交換なんかもしたりしてな」
 実際、このチーム―――「S.D.R」と名乗っている集まりの大半のメンバーも自らの力を磨き上げたい一心でこんな辺鄙な場所にあるコートに集まっただけなのだ。所詮は自己中心的。でも刺激ある場所で何かを得たいとして集まったメンバーなのだ。
 そこまで説明すると、夜は思案している様子だった。
「つまり、香登くんはわたしにこのチームに入って欲しいという魂胆なのね?」
 遠回しに言えばそうなるかもしれんが、そうやって的確に物を言う人は嫌いです。
「俺はあくまで場所を提供して、情報を提供しただけだ。そこからは須磨寺の勝手だ。無理強いしないし、断られたからと言って恨みはしないよ」
「そうね。貴方なら、そう言ってくれる」
 んー。なんだろ。割と高評価なのか、俺は。喜んでいいのか悔しがるべきなのかイマイチよくわからん。
 さて、後は夜の考え次第だと思っていると、今まで黙って彼女の様子を見ていたルリが対峙するように夜と向き合う。
「……カガト、須磨寺茜の妹をメンバーに入れるの?」
「あくまで須磨寺から了承を得てからだけどな」
「なら、テスト」
 なぬ。
 俺が何かを言う前にルリはすたすたとベンチに置いていた自分の鞄を漁りだす。呆然とする俺らをよそに彼女が取り出したのは一枚のシャツと、これまた黒いスパッツ。何枚持ってきてるんだ。しかもまたシャツに何か書いてあるし。
「見たところ、サイズは一緒。これを着て」
 突き出された二枚の衣類にどう対処するべきか困惑する夜。
「お、おい。ルリ。まだ須磨寺はチームに入るとも言ってないんだぞ?」
「構わない。須磨寺茜の妹がどれほどの力量なのか試してみたい。それとも、出来ない理由でもあるのか?」
 ルリの挑発めいた言葉は夜の琴線に触れたようで、戸惑っていた表情は一変、突き出された衣類を引っ掴むと先程までルリが着替えていた場所まで走っていく。
「ルリ」
「黙って。私はうじうじしている人間が嫌いなだけ。はっきり目的を言わないカガトもそうだけど、人の心ばかり覗いておいて自分の意見を全く言わないアイツはもっと嫌い。だから、やらせる。手っ取り早いほうがカガトも落ち着くと思う」
「確かにそうなんだが」
「先輩。ルリさん、もう何も聞いてないと思います」
 あー、そうだな。
 もう諦めるしかないか。
 数分後、柱の裏から出てきたのはいつもの夜とは違っていた。須磨寺茜とも違い、その瞳と体には闘気が漲っていた。まるでそれに合わせたかのようにルリに手渡されて着ているシャツには『熱血』と書かれていた。わかった。須磨寺夜は負けず嫌いだ。しかも、かなりの。
 いつでも持っているのか、手首に巻いたゴムで、後ろに一房垂らすように髪を束ねる。それだけでも印象が変わる。本当に女はよくわからん。
 夜がコートに入ると、2人は睨みあったまま位置につく。ボールは夜に渡された。自然と夜がオフェンス、ルリがディフェンスの状態になる。
「お前ら、やりあうのはいいが、準備体操ぐらいしとけ。痛めてもしらんぞ」
 瞬間、彼女らはまったく同じタイミングで屈伸をし始めた。次も同じタイミングで腕の関節を伸ばす。腰、肩、アキレス腱などの工程もまったく同じだった。
「……もしかして、意外と気が合うんじゃないでしょうか」
「気が合う、っていうか既に争いあってんじゃないか。あれは」
 体操如きに。
 十分体が仕上がったのか、夜は感触を確かめるようにボールをコートに叩きつけ、ルリは守備体勢に体を移行する。
 緊迫。
 俺と来須は出来るだけ邪魔にならないようにコートから若干離れたところで様子を見る。口出しはしないから思う存分やれ、という意思表示のつもりだが、もうあいつらには何も見えていないだろう。
 よくよく考えればこの機会は必要だったかもしれない。須磨寺茜が2人いる、と夜は言っていたが、それはあくまで中学時代のことだろう。地道な努力の結果、お互いが知りえない空白の数年間の内にどれだけ上達しているのかはわからない。須磨寺夜はどれほどの腕前なのか。本当は全員が集まって、3on3で勝負すればアシストなどの判断力も評価できたんだろうが、ひとまずは個人領域での力を見せてもらうことにしよう。
 さあ、須磨寺夜。
 悔しさをバネにして、目の前の敵を打破できるか?


 B.

 目の前に広がるのはゴール。この数年間はただ、そのゴールに向かって投げていればよかった。
 でも、今は違う。目の前にはディフェンスがいる。
 数年来いなかった、敵がいる。
 挨拶もなく、いきなり勝負を突きつけてきた金髪碧眼の少女。彼女は一体何が面白くないのだろう。その瞳には敵愾心が宿っていた。プレッシャー。まるで豹にでも睨まれているような。豹。そういえば、姉さんも一時期は豹のようだと評されていた。面白い。つまり、わたしは今、姉と同じ気を放つ相手を前にしているのか。
 高揚する。心臓が異常に鼓動する。息が始まる前から荒れてくる。苦しい。これほどまでに人と対峙することは恐怖だったのか。中学時代の試合は勢いはあっても、特に苦になるものではなかった。違う。もうこの場所はそうではない。真剣勝負だ。しかも1on1。パスをする相手はいない。個人競技だ。個人の能力が問われる。つまり、彼女に勝つためには彼女を抜かなければならない。わたしの腕で。わたしが培った年月で。
「……いつでもいい」
 余裕だ。この人は余裕を持っている。なら、打ち破らないと。
 この人を抜かないと、姉さんに追いつけない―――!
 走る。金髪碧眼に向かって走る。向こうも腰に力を入れて防御体勢に入る。
 一歩目、右。読まれた。反応速度が速い。
 二歩目、左。読まれる。足の運びが上手い。
 単純にフェイントを与えるだけではダメだ。多分悔しいけど、場の数では彼女のほうが上だ。でも年月なら。積み重ねてきた努力なら!

「ボールが体から離れている。ダメ」

 手からボールが離れる。その言葉以降、ボールが手に戻ってくることはなかった。
 カット、された。
「姿勢がダメ。体の意識ばかり前に行ってしまって、ボールが追いついていない」
「……ボール」
 そういえば、ボールの場所なんて考えていなかった。体の動きばかり気を取られていた気がする。タイミング。リズム。散々言われていたことを今更になって思い出す。なぜ、忘れていたんだろう。
 切り替える。今はまだ勝負の時間だ。悔やむのは後でいい。今は反省を活かすことが重要。
 落ち着いてボールをつく。もう勝負は始まっている。体とボールを一体化させる。視界を広げる。どこに隙があるか。見る。全体を。

「だからといって、敵が向かってこないことを考えないのはナンセンス」

 言葉が聞こえた。
 耳元から。
 そう思った瞬間にはボールは既に相手の手にあり、遊びを楽しむかのようにゆっくりと反対側のゴールにボールを入れた。
「考え方が極端。全体を見回していれば個人が見えていない。場の空気ばかり読んでいるから、咄嗟の行動に対処しきれなくなる」
「……難しいことばかり言うわね」
「難しくない。すべては経験。慣れが大切」
 慣れ、か。
 確かにわたしは実戦経験がほとんどない。中学時代も公式試合は全く経験がないまま退部してしまったのだ。あるのは練習試合。しかも控えスタート。慣れる暇なんてないに等しいのだ。結局、わたしは全てにおいて姉に、須磨寺茜に負けている。負けてしまっているんだ。

 そのあと、何度も挑戦はしたけれど、どうしても彼女を抜けない。抜かせない。シュートが打てない。打てたとしても、焦りから標準が定まらないまま放ってしまう。挙句の果てにボールを奪われる。それが連続。ひとりでの練習の時には味わえなかった疲労感と焦燥感。挑発を受けたときは意識していなかったけれど、この人は厚い。
 壁が、厚い。
 苦しい。わたしは姉を目標に立てていたけれど―――違う、それは間違っている。姉との差は随分開いてしまっているのだ。なら、その差には、わたしと姉を阻む敵がいることも認識しなければならなかったんだ。苦しい。胸が苦しい。なんでわからなかったんだ。理想を高くしすぎて、目の前のことがわかっていない。
 ダメだ。
 これじゃあ、一生、姉に追いつけない。
「……わたしは、須磨寺茜に会ったこともない。試合をしたこともない」
 そんな声が風に乗って聞こえてくる。既にそこに険しい音色はなく、最初に感じた冷たさを感じる。でも、どこか、心地よい。
「どれほど強いかも知らない。でも、だからって、最初から負けている気分のお前は嫌い」
 素直すぎるからこそ、胸に痛い。
 負けている気分。そうだ。わたしは最初から姉に劣等感を抱いていた。到底追いつかない。追いつけない。だから追いつかなきゃ、ってずっと思っていた。
「でも、それでも練習を積み重ねている姿は好き」
 挑発していると思っていた。この人は、わたしが嫌いだから怒っているんだと思っていた。
 違う。この人はそんなことで決して怒りはしない。
「須磨寺妹。元気出せ。弱さを知ってるなら、残っているのは強さだけだ。強くなれ、妹。初めて会ったときのお前は嫌いだが、バスケをやっているお前は嫌いじゃない」
 そう言った彼女の表情は、とても輝いて見えた。


 9.

 ……えーっと。
「いつの間にか友情が芽生えてます?」
 そのようだ。見ている限りではボロボロにしてからカッコいいことを言う、少年漫画的な風景が目の前に繰り広げられているわけだが、この場合、どうしたらいいのだろう。見守るべきか。拍手でも送るべきか。
 いろいろ立場をルリに取られちゃった気分になっていると、夕闇のほうから足音が聞こえた。
「お。なんやなんや。いつの間にか白熱した戦いが始まっとるやないか。や、ルリのその調子やともう終わったんか?」
「大和」
 二条大和。見ての通り、大阪弁の変なヤツである。こんなヤツがあのルリの彼氏だということに驚きを隠せないが、まあ深い理由があるのだろう。ちなみに大和は琴川高校バスケ部所属だ。本人曰く「部活はつまらんヤツばっかや」なのだと。
 大和は向かい合っている夜とルリを尻目に、こちらに近づいて来た。
「うっす、カガト。どうやら連れてきたみたいやな。で、どないや。腕前のほうは」
「見て明らかだろ。それとも対戦した本人にでも聞いてみるか?」
「それでもええんやけどな。俺はカガトの意見が聞きたいんや」
 ふむ。俺の意見ねえ。
「バスケの基本は出来ているが、実戦経験が浅いせいか、1on1もまともに出来ていない。防御面は見れてない。そこも多分まともに出来ないだろう。即戦力は無理だ」
「厳しいな」
「―――でも、あれだからな」
 視線を向けると、あの2人が言葉少なげにまたプレイを再開していた。勝負には違いないが、どこか両者とも力を抜いてやっている印象を受ける。楽しんでいる。バスケを愛して、バスケに対して必死になってる。そこに、須磨寺茜の影はない。彼女をまとっていた須磨寺茜という亡霊、須磨寺茜というプレッシャーは若干ながら取り払われている。全てを脱ぎ去るのは、夜が茜を抜いたときだろうが、今はこれでいい。
「ああやって実戦を重ねてくれる相手がいるんだ。すぐに上達してくる。ルリの教え方は上手いからな」
「ルリもルリで、コンプレックスの塊やからな。金髪碧眼っちゅう容姿とか喋り方とか。そやから、同族意識が芽生えたんやろ。言うたやろ、結局つまらん理由で人間っちゅうのは悩んでんねや。誰かがそれを認め、評価してくれればそれでええんや」
「俺よりお前のほうが、人間観察に優れてるんじゃないか?」
「ハッ、わかっとんのはルリに関することぐらいや。にしても、あんな楽しそうなルリは久しぶりや。……ちょっと嫉妬してまうで」
 がっくり肩を落とす大和を来須が慌てて慰めにかかる。どうせすぐ復活するのに。
 そういえば、来須が大和はゴリさんを連れてくるって言ってたけど、いないな。
「おい、大和。ゴリさんは?」
「メンバー集めに回っとる。行動力だけは素早いからな、あのおっさん。……でも別に必要あらへんかもしれへんな。人数は多いほうがええけども、そうなると対戦する楽しみがなくなってまうし。あとで電話入れとくわ」
「そうだな」
 あまり人数が多いと夜も戸惑うと思う。6人もいればチームメンバーで3on3も出来るんだから、そこから実戦経験も培えばいい。準備は整った。あとは須磨寺夜自身が、この集まりをどう扱っていくかだ。
「なんや、カガト。楽しそうやな」
 ああ、楽しいさ。
 高校の部活では味わえない快感がここにある。ただ一心に「自分を変えたい」「自分を鍛えたい」という人間がここに集っている。それは人それぞれ細かく異なるけれど、それがまた面白い。
 二条大和は部活の退屈さに。
 来須要は自己改変のために。
 和泉ルリは自分のコンプレックスと戦うために。
 須磨寺夜は姉を見返すために。

 そして、俺は―――――

「香登くん」
 須磨寺夜が休憩のために、こちらに近づいてくる。
 頬は紅潮し、息も荒れている。声も硝子のように冷たくはない。もう、ここにいる少女は以前の須磨寺夜じゃない。昔の、いや本来の須磨寺夜なのだ。
「わたしは、また、ここに来ていいのよね?」
 意志。
 それは多分、彼女が本心から世間に訴える、自分の証明。
 素の自分を曝け出した瞬間だ。
 だから答える。
 俺は、それに答えなければならない。
 新しい仲間を迎えるために。

「ようこそ、この新しい世界へ」




 10 or epilogue.

 ストリートバスケットを始めてからというものの、須磨寺夜はゆっくりと周囲に対する考え方を変えたらしい。
 人間不信も若干和らいで、クラスメイトとも打ち解けている。いや、影が薄まらなくなったんだろう。元来、彼女の素質自体はいいのだ。ちょっとした勇気と努力でそれは改善できたはずなのに、彼女は今までそれをやってこなかった。「本気を出せば、このくらい」の状態が今の須磨寺夜のスクールライフだ。
 一方、まったく変わらないところもある。
 須磨寺茜に対する嫉妬心はもちろんのことながら、部活前に体育館に来るのも三日坊主で終わらず続いている。当然のことながら既に周知のことだ。妙な噂を流している者もいるようだが、だからといって、彼女が止める気配はまったくない。
 果たして須磨寺茜がこの状況をどう見ているのかを知りたいものだが、現状が変わっていない時点で特に何も言っていないのだろう。
「また来ているわね、須磨寺さん」
 相変わらず来ない顧問を待っていると、背中から声がかかる。ネットの向こうには熱気がこもったまま練習をしている女バスの姿がある。
「練習見なくていいの? ウメちゃん」
「いいのよ。まだウォーミングアップの時間だし」
 どうやら俺のウメちゃん攻撃はじわじわと浸透してきているらしい。最近は何を言われようとも反論はしてこない。慣れというのは本当に怖いね。にしても、本当に信頼感と結束力のあるチームだ。男バスのメンバーに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだね。特に顧問。
 ウメちゃんは視線を俺から外し、通路にいる夜を眺める。
「それにしても印象が変わったわね。以前とは雰囲気が違う。前々からあそこでこちらを見ていることは知っていたんだけど、その視線も今は違っている。刺々しかったのが、若干鈍ってる。なんていうのかしら。ほら、昨日の敵は今日の友、といった感じ?」
「……ウメちゃんが漫画みたいな表現を使うのは意外だったけど。つまり、敵対心から研究心に変わったってところ?」
「研究心、確かにそんな雰囲気があるわね。うちの練習から何かを得ようとしているような。ホント、キミには何かと驚かされちゃう。何でもわかっているようでそれでも誤魔化しちゃってるところがあるからなー」
 そりゃわかる。毎日のように練習に付き合わされて、散々身の上話をされればな。
 いつから俺は『こども相談室』の電話相手になったのだろうか。
「彼女が変われたのも、キミのおかげなのかもね」
「はい?」
 待て。俺は一度も須磨寺夜と関わりがあるなんて言ってないぞ。お互いに不利益が生じないように、接触は極力避けようという話で夜とも合意した。連絡もなるべくメールで、不自然にならないように会話もしている。果たして、どこからそんな結論にいたったのだろうか。
 俺が首を傾げていると、ウメちゃんは目を細めた。
「須磨寺さん――夜さんとはよく話をするの。気が合う、っていうのかな。その度に話題に出るのがキミなのよ。私が男バスの話題を振ると、必ず、とは言わないけれど聞いてくるから。もしかしたらって」
 あの女郎。自分から協定を結んでおいて、自分からバレるようなことしやがった!
 しかも憧れのウメちゃんに!
 不利益が思いっきり発生してるよ。主に俺方面に。
「あの子は恥ずかしがりやなところがあるなら、あまり本人の前では礼は言わないと思うわ」
 慌てている俺が面白いのか、ウメちゃんは鈴が鳴るような声で笑っていた。
 礼。そういえば、俺も夜から礼を受けたのは初めて言葉を交わして以来だ。それを恥ずかしがりやと受け止めるべきか、頑固というべきか。
「だから代わりに私が礼を言うわ。ありがとう、香登くん。これからも夜さんをお願いね」
 託された。つまり、それは事実上の「お友達でいましょう」宣言に近かった。いや、お友達でもなれるならば本望だが、どうも納得がいかない。
 そういえば、体育館に来る須磨寺夜に関しての妙な噂の中に「恋人の帰りを待っている」という項目があったことに気がついた。美術部の活動日ではない日には、男バスの練習が終わるまで待っているからだ。それは大抵、あのコートへ行く日。道も同じということで、俺と夜は連れ立って練習に行くのだ。もしかしたらそれを誰かに見られていたのかもしれない。
 迂闊。ウメちゃんはその「恋人を待っている」案を支持しているというのか。
 泣きたいのを我慢して、このようなことになった元凶のほうへ目を向けると。



 須磨寺夜は、にこやかな笑みを浮かべて、こちらに手を振っていた。